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マルコによる福音書6章6節b~13節

 

 

 主イエスは「神様の愛と憐れみに満ちた御支配」=「神の国」を宣べ伝えるために弟子たちを様々な土地に派遣されました。派遣される者は、派遣する者と同等の権利、発言権を持つ者、代理と考えられていて、その分、非常に重い責務を担うことになったのです。そうであるのならば、もし私たちが、主イエスから「あなたを派遣します」と言われてしまったら、どうするでしょうか。恐れおののいて、その務め、働きから逃げ出してしまうかもしれません。誰も胸を張って「行きます!」とは言えないでしょう。そのことは主イエスにも分かっていたことでした。主イエスはそんな恐れと不安に満ちてしまうであろう派遣される者たちが、その務めを果たすことができるように、様々な「備え」をしてくださいました。それがこの場面にあることです。 その第一のことは7節「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組みにして遣わすことにされた」ということでした。どうして「二人ずつ」なのでしょうか。主イエスはルカ福音書17章20-21節で「神の国」についてこう述べています。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。[ここにある][あそこにある]と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』」と。どうでしょう、人が一人では「間」というものは存在しません。主イエスは誰かと誰かという「あなたがたの『間』」に神の国はあると言われたのです。主イエスが求めておられるのは「二人でいる」「共にいる」ということです。共にいようとするとき、そこにはおもいやりやいたわり、愛が生まれます。そしてそこに「神の国」はあるのです。「二人一組」であるということは、派遣される者たち同士の間に神の国を実現しながら、人々に神の国を語り伝えるようにしてほしいという願いからでした。派遣される弟子たちには7節後半「その際、汚れた霊に対する権能を授け」られています。そのような神様の力が与えられるのならば、彼らは非常に安心したことでしょう。しかし、その次はどうでしょうか。8節「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金を持たず、ただ履き物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」。それは今から人を派遣する者の言葉とは思えません。冒頭で主イエスが派遣に際して、様々な「備え」をしてくださった場面とお伝えしましたが、これは一体どういうことなのでしょうか。もし主イエスのご命令に従ってしまえば、それは完全に「何も持っていない状態」となってしまいます。

 では主イエスはなぜそのように命じたのでしょうか、それは自分で備えなくとも、神様が確かに備えてくださると信頼することを派遣する者たちに求めたからです。どうでしょう。私たち人間は、あれこれ備えても、それはそれで「あれもこれも足りない」と言って、ひたすら不安を大きくしていくだけでしょう。だからこそあえて主イエスは人間のできる備えを手放させて、もはや神様に助けを求めるしかない者、神様にこそ信頼として者として派遣するのです。神の国を語るために派遣される者は、その者たち自身がまさに神様に信頼して神の国に生きることをまず求められるということです。それが派遣の何よりの備えなのです。
 この箇所を読む私たち信仰者は、弟子たちと同じように派遣されています。毎週の礼拝の最後、私たちは祝福と共にこの世へと、身近な人の元へと「派遣」されていくのです。しかし私たちは自分にその働きをなせるとは思わず、あれも足りないこれも足りないと、備えなければと不安と恐ればかりを抱きます。実際、私たちが主イエスの派遣に応えて神様の御支配を宣べ伝えることもそうですが、私たちのすべての歩みに様々な困難があり、不安と恐れが絶えません。それにどう備えようかと頭を悩ませ続けます。しかし神様は私たちがその派遣に応える備えを、あらゆる困難を越える備えを必ずしてくださいます。私たちはもちろん何もしない訳ではなく、現実に様々な備えをしなければならないでしょう。けれども、何をするにも「神様の備えがある」という「信頼」から始めたいと思います。私たちが信頼する相手は私たちを、一人一人を愛し尊び、私たちが何よりも強く大きな力を持つと思っている死を越える主イエス・キリストの十字架と復活を与えてくださったお方なのですから。

「『神様の備えがある』という信頼」

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